このブログには、なぜ働かなければいけないのか、なぜ働くのか?
話下手な私ですが、現時点の考えを書いています。
自分の考えを伝えるのが苦手な理由
「自分の考えを誰かに話すと言うことは、誰かに自分の意見を押し付けるのと同じだ。」
いつだったか、父から聞いた言葉です。
自分から出た言葉ではないものの、私も同じように考えて生きてきました。
だからこそ、大人になってから、話すよりも話を聞くことを意識して生きてきました。
聞くことは得意にはなったけれど、相変わらず、話すのが苦手なのは今も昔もずっと同じです。
けれど、そろそろ良いんじゃないか。
そう思うようになったので、少しずつ、文字に言葉にしていきたいと思います。
不快な思いをする方がいらっしゃったら、すみません。
私が働く理由
最初の言語化は、私が働く理由です。
私が働く理由は、生きるために給与を稼ぐためではありません。
社長としてあるまじき考えだと思いますが、究極、崇高な理念の達成でもないです。
本当の核となる理由は、巨大な承認欲求を満たすためなのかも…と思います。
幼少期、学生時代のどうしようもない自分
読み手は興味がないのは分かりつつ、話は私の幼少期まで遡ります。
幼少期、有り難いことに両親から目一杯の愛情を受けて育ち、必要以上に自己愛に満ちた子どもでした。
「自分はありのままで、他者から愛されるべき存在である。」
書いていて恥ずかしい、甚だ勘違いをしていました。
もちろん、成長するに従い、ありのままでは、他者から愛されないということ、社会との関わりの中で痛い目にあって気が付きました。
友人と上手くいかない、集団で行動が出来なくて、排除される。
そんな経験を通して思うことは、どうやら、自分はこの世界にとって、「居ても居なくてもどちらでも良い存在」である。
なぜ、愛されないどころか、集団での存在が許されないのか?
私という個人から幽体離脱する気持ちで、俯瞰して考えてみました。
そもそも、私がこの世界に存在することによって、誰かにとって、何か良いことはあるだろうか…?
毎日、シャンプーやトリートメントで水を汚し、プラスチックを使い捨てて環境を汚してるし…
ご飯の度に命をいただいているし…
性格は、自己中心的でナルシシズムな人間。
これは、両親を除き、私の存在自体が世界にとって、マイナスの要素の方が多いのでは?笑
そんな風に感じました。
自分は特別だと思っているのって、結局自分ひとりだけ?
自分は物語の主人公だと思っていたのに…その辺の名前の無い通行人でしかない。
私って、何のために生まれてきたの?
必要以上に自己愛が強い当時の私にとって、路傍の石である自分。
それは認められない真実でした。
そんな性格のまま、間違った認知のまま生きているとどうなるのかというと…
誰かと関わり合うのが辛い、生きているのが辛い。
ここまで精神的に落ち込みました。
周囲は部活や勉強で忙しそうだけれども、とても充実していて、楽しそうにしている。
一方自分は喜びや楽しみもなく、這うように学校に行き、社会との関係、他者との繋がりを極力避けながら、上手くいっているフリをしながら毎日を過ごしていました。
社会人になってから、ようやく知り得た希望
そんな暗黒の学生時代を過ごし、精神的に地面を這いずりながら、生まれた意味も目的も分からず、惰性で生きていたのですが、社会人になってからようやく生きる希望を感じる瞬間がありました。
それは、誰かに喜んでもらうこと、頼りにされること、ありがとうと言ってもらえること。
自分に必死になっている間は気が付きませんでした。
誰かのために、何かを頑張れば、こんなに豊かで幸せな気持ちになるんだということに。
そのことに気が付いてからは、
両親、友人、先輩、後輩といった、身近な個人からのありがとうや信頼を集めました。
個人からのありがとうを集めたら、
次は、上司、社長、チーム、組織、集団の中で自分は何が出来るだろう?と考えました。
少しずつ目線を高く、範囲を広く、自らの役割や貢献を意識しました。
その結果、難易度が高くなるのと比例して、どんどん、喜びが大きくなっていきました。
不思議と、誰かが自分のために何かしてくれていることにも気が付きました。
喜びや幸せのバトンは既に誰かから受け取り、自分の手元に沢山あったんです。
もらったバトンを繋ぎたいという感謝の気持ちが芽生えました。
結果、私の生まれた意味は、誰かからもらった、喜びや幸せのバトンを他者に、そして未来に繋ぐためなんだ。
そう思いました。
このブログのテーマである、私が働く理由に戻りますが、
仕事には、「誰かのために」の要素がめっちゃくちゃに、信じられないほど詰まってる。
だから私は自分が幸せになるために働きます。
起業した今の私は、お客様、自分の会社、社会、そして、未来の子どもたち。
少しずつではあるけれど、役割や貢献の範囲を広げていきたいと思っています。
きっと、もっともっと喜びが大きくなると、肌で感じるので。
誤解を生みたくないのですが、自己犠牲で得られるありがとうは案外簡単に手に入ります。
難易度が高く、本当の意味でありがとうと言ってもらえるのは、自分も相手も、みんなが幸せの時に限ると思っています。
最後に
働く理由が承認欲求といった内容を書くか否か悩みました。
けれど、もしかしたら、働くことが辛い、生きるのが辛い、巨大な自己愛を持て余して悩む方が見てくれるかもしれないと思い、書きました。
「誰かのために」を「自分のため」に出来たら少し、生きるのが楽になるかも?
本質的に自己中心的な私ですが、本当に誰かの役に立つ未来を目指して。
